昭和40年05月09日 朝の御理解



 腹が決まるということ、信心させて頂くものが、こうと腹が決まった。信心をぬきにしてからのことは、いざ知らずですけれども、信心させて頂くものがです、ま例えば「朝参りさせて頂こう」と、腹が決まった。「これは、神様が喜んでくださることに違いない。」ということが、こうと腹が決まった。腹が決まるということ。それは、もう、おかげが決まったのと同じこと。腹が 決まらん所に、いつまでも難儀があるんです。腹が決まらにゃいけません。
 昨日は熊本の(くまのしょう?)の吉田先生ところの、御信者さんが先生を先頭にして、団体バスでお参りがあった。ここではちょうど企画委員会の方達の、集いがもうその時間からあるようになっておった。同時に昨日は青年部会でもあった。ちょうど御祈念のころには、伊万里から竹内先生を先頭にしてから、全部お参りになって見えた。何か知らんけれどもですね、一つの勢いを私は感じない訳にはいかなかった。
 ちょっとそこの窓を開けてみたら、もう月次祭の時のごつ一番向こうまでズーっと、自家用車が並らんでおった。なんでもない昨日、昨日なんです。例えばですそう言う様な集いがこうあっておる。特別の団体参拝がこうあっておる。思いもかけない。例えば総代さん方が、昨日、昨日の晩総代会を開かれた。そしてあらゆる意味合いにおいての腹がきまった。どうですか、腹が決まったら早速そういう勢いになってきておるじゃないですか。腹が決まるということなんです。
 しかも「これならば間違いない、これなら神様が喜んで下さる」と。と言う様な事がです、腹が決った時に、そういう働きになってくるのです、同時にですからお互いの腹が決まるという時にはです、もう難儀はないです。腹がきまってるのですから、ね、決ってないところに、ぐずぐずしたものがある。難儀が感じられるのです。昨夜も、伊万里のあるご信者さんが、娘さんが就職をお願いしてあった。
 ところが先日からおかげを頂いてその、大坪養魚という魚を養う所でしょうね、「それが大坪という」。それからお話があった。「おかげを頂いてから勤めさせてもらっておったところが、先月からその大坪養魚がその建設が始まった」。「御普請がはじまった」だもんですから「従業員に給料を払われん」ち、それでもう娘が言いよります、「給料も貰わんごたるならもう、辞めよか」ち言いよるけん。
 「お母さん今度参ってきたなら、明日お参りするなら、親先生にお伺いをしてきてくれ」ち(笑い)ね、それで私が申しました。「ほらぁ○○さん、おかげですよ。二月、三月給料もらわんでも」、大坪養魚がです、ほんとにですそこの建設が建ちあがっていく、大坪のごと大きゅうなっていきよる、なんかただ事とは思われんごたる気がする。私も大坪という、ここでも建設が始まっておる。
 養魚、魚というのは徳の魚が沢山養われると言う様な感じがする。言うならここと、繋がりがあるような感じがする。「だから二月や三月は給料はいただかんという気持ちになりなさい。」そして、「大坪養魚のことを祈りなさい。」と申しましたら、お母さん自身が言ってるんです。「おかげ頂いて腹がきまりました」ち、娘よりか母親のほうが、どこかほかのところへ、勤めげだしたいような気持ちがあるのですよね。
 給料もろうてこんもんだから、腹が決った。決ったら有難うなった。ほんに先生そういう微妙な繋がりがあるんですもの、腹が決った。「ね」、総代さん方の腹が決った。まあ、決ったというても、私は、まあ、皆さんの心の中に感じておられる程度のことだと、思いますけれども、それが、もっともっと決って御覧なさい。もっと、有難いことになってくる。椛目全体の動きが変わってくる。ね、
 毎日例えばですよ、昨日のように、例えばあちらからも、こちらからも団体参拝があるようになる。思いもかけない人達がどんどん参ってくる。駐車場にはズーっといつも一杯自家用車が並んでおる。例えばそう言う様な勢いで、私はもし椛目が繁盛したらですね。ね、皆が心配しておることは、一遍に吹き飛んでしまうと私は思う。昨日企画委員会の方達が丁度5時頃から11時ごろまで、熱心に色々検討があったらしい。
 それは例えば愈々本番にこう突入してきたという感じですからねえ。いつも最近申しております様に、もう内々だけじゃいかん、もうもう他人の手に渡さなければならない。例えば建設が始まったら。ときにさあ「おかげいただくが」「おかげいただっが」といって尻馬にのったような、わあわあ言うて居る様な事ではもういけん。だからもう昨日は、随分と慎重だったらしいですね、お話が。
 委員長の秋永先生に「ちっとばっか、こりゃどうでしょうか、予算をこう減らしてもらうわけにはいけんでしょうか」と言う様な(笑い)言うなら企画が立てられない、計画が立てられない。と言った様な話も出ていたということ有難い。そりゃそれだけ真剣になったということなんですからそれは。そうでしょうがこれは何千万というてもま、図面はでけてきた敷地はでけて来たが、さあいよいよ建設やというて渡した時にです、ね、果してこれが成就その先導するのが、これは大変なことだぞと。
 あんまり大きな事ばっかり言うとったちゃ出来んから、少し予算を減らしてもらう事は、いけんだろうかと言う様にです。企画の方達が真剣になられたという事は、私しはおかげだと思う。問題は真剣にならなきゃ駄目です。ですからそこは秋永先生流にです、ね、「あんたどんがそげな事言いよったんじゃ、本当のおかげにゃならんぞ」と。いうて最後にはです、その事よりも信心の企画、信心の造営ということに、ね。
 色々話をされたらしんです。ま、それが、企画員人たちの、本当の腹が決ったかどうか、わたしは、その人達の話を聞きませんから、知りませんけれども、「ね」、慎重になってきたということだけは、間違いがないです。もう愈々身近に感じてきたということだけは、間違いがないです。いや神様が愈々さあ腹を決めんかという働きが近づいて来たと言う事だけは間違いがないです。そうでしょうが。ね、
 もう10年も前だったでしょうか。朝からね、12時までお昼までこうして奉仕をさせて頂きます。12時になりましたから立たして頂こうと、ね、思うてです、私はここを立たして頂こうと思った。座っとるから分からんのです、自分では感じん立とうと思ったら、どっこい立てんのです。足がおかしいなと思って、こうしがみついて立とうと思うけど立てんのです。時に、私の心の中に感じたんです。
 「来るものが来たなあ」ち、そんな感じでした。足がなえてしまってるわけなんです。「痺れがはいった」そんな生易しいもんじゃなかったんです。それがね、座っている間は感じなかったんです。座ってるんですから。愈々立とうと思ったら、どっこい立てんのです。瞬間私がここに感じたのはです、あ来るものが来たなということだった。この御結界の机を向こうにこう押して、こう押してから、私ここを降りました。
 そのときついたてがなかったから、そして、敷かして頂いている座布団に顔をうずめてから、私は、なんか知らんけれども、感激の涙が流れてしようがなかった。お取次ぎの御用をさして頂きます、難儀な氏子が助かっていくことのためにです、もう、私は60になったら隠居をしようとか80になったら、いわばここは誰かに譲ろうとかそういう気持ちは毛頭だいたい私の、心の中にはないてす。
 私の命の続く限り、ここは私しはおかげ頂かして頂かねばならんとこだと、こう思っているけれども時々、若さが出てくる。人間臭が出てくる。これがここに座っておるということだけでもです、大変じゅつのなって来る事がある。たまには我侭の一つでもしてみたいと言った様な心もおこるけれども、ね、愈々こう足が立ないということになってきたら、もういよいよ私の心の底にある本当のことがです、本当のものがです、これは愈々ここに、座りぬかれるぞというものなんです。
 いわば、命がけでここに本気で私は、何年もお生かしのおかげを頂くか分からんけれども、ここにいよいよ、本気で座り込むことが出来るなという、それが、私のここ下がってからの感激、次に瞬間にはそんなものでした。でも、腹が決ったんです。いよいよ、足が立たない、ならば、もうここに、わたしは、座るこむ以外にはないと、こういうことです。その腹が決っておるようであって、決まってなかった。ね、
 私しは、他に、楽をしようとは思わない。どこに行きたいとも思わない。いや門外不出、もう出らずにここっきりで本気で生涯を終わらせて頂きたいという、念願を持っておるけれども、時々若さが出る。我が儘が出る。これが動くばっかりに、どこにも行ってみたいというような心までおこる。けれどもここに足が立たなくなった。立とうと思うても立てない、その時に私の心の中にですね。
 来るものが来たなっというのがですね、ああもう私の身体もこれでお仕舞になった、そんなもんじゃなかったんです。来るものが来たなっというのはですね、そういう腹を決めるときが来たなっということだったんです。腹がきまった腹がきまったら、もうとにかく、この座布団が濡れる様に涙が流れた、感激の涙が。ですからです神様が喜んで下さる様なことがです。これならば、神様が喜んで下さると言った様な事がです。
 腹が決まった時にです。皆さんの心に喜びが湧いてくるなら、あなたの腹が本当に決った時だということが解るです。人の顔色でもみとると言う様なもんじゃないです。「あれが参るけん、私も参らじゃごて」と言う様なものじゃないんです。「あれがお供えしよるけん、私もせじゃごて」と言う様なもんじゃないです。私の腹が決まった。ね、腹がきまるとです、その腹が決った事に対して、神様が感動しますのです。神様が喜んで下さるのです。腹が決った時にもう、難儀はないです。
 これから何十年間愈々座り抜かにゃんばいな、と言った様な難儀はないです有難いです。皆さん信心の稽古をなさっておられる。ね、本気で例えばです「朝参りを始めよう」と、本気で朝参りさして頂こうと、腹が本気で決ったらです、神様が必ず喜びを与えて下さいますよ。朝参りはしよるけど、その喜びが無いならです。ね、「いつ止めたらよかろうか」と、ね、まず口実があったなら、もうお参りせんでよかろう、ね。
 頭が痛かったら、ゆっくり朝寝してようか、腹が痛いからそのことを口実に、「今日は、お日参りせんでよか、」いうようなことではね、まだ腹が決ったということではないです。もう頭が痛かろうが腹がせこうがです、這うてからでもお参りしよう、そういう腹が決って神様が喜びを与えて下さるのです。そこからです今まで思いもかけなかった働きがはじまって来るのです。
 いうならばです、総代さん方が腹が決った。本気でご建設のこともさる事ながらです。信心の建設のことがです。信心の御造営のことがです。とても私共の知恵やら力で負う事じゃないと言う、もう身に迫るようなふうに感じてこられた。それは企画の方達がです、愈々そのことが、もう身近に自分たちに感じられる様になったものですから、少し予算を減らして頂くわけは、いけんだろうかと委員長に相談があったようにです。
 それはいよいよ迫られてきた腹を決めろという、神様の働きが始まってきたのです。ね、総代さん達でも然りだと私は思うです。ね、そこで総代達が話し合い、とても自分たち総代10人十何人のものがです、幾ら一生懸命に成ったからといって出来るだんのことじゃない。それはいよいよ神様におすがり、神様の働きを頂く以外にはない、為には総代としての信心がまされ、以外にはないということにならして頂き、改めてお取次ぎを頂いてそのことを願われた。
 願われたら例えばその印(しるし)を見せて下さるように、それに答えて下さるように、例えば昨日一日ここのお広前が賑おうたということ。そういう働きになってくるんですよ。だから、それは、いわばお印なんです。だから、皆さんの腹の決り方がです、お印的なものから、本当のものへ、腹が決ってくるときです。本当のことになって来るのです。皆さんが、帰りがけにです、企画の方達が帰ります時にです、私が、ある企画の人に、肩叩いてからいうた。
 ○○さん、ね、「何千万の家を建てようと思いなさんな」と私は申しました。「100万円の家ば、建てると思いなさい」と私は申しました。見安かじゃないか「あんた、何千万のお広前ば建てようと思うから難しいのじゃ」と。昨日の朝の御理解なんです。ね「50万の改造をすると思いなさい」と、ちょっとねぎだれけえ誰をあつこうたら10万円かかったと、いわば、私のこととして、自分のこととしてですたい。ね、
 ということになる時に腹が決ろうがと、自分だけ一生懸命で、いかにももう三千五百万円ば、自分たちが捻出せなんごと、三千五百万と聞いただけで、もう目の前が真っ暗になっとる。一人一人がです何千万の家建てると思わずに、百万円の家を建てると思い、五十万円の改造をすると言う様な、自分のこととして、それが思えるときに見安いことじゃないかということ。ね。難しいその難しいとその難しいと言う間は腹が決まっとらん証拠なんです。皆さんそういう意味合いにおいてですね。
 わたくしは、腹が決まるということ、もう、私の腹は決まった。誰が何と言うても私の腹は決った。ね、その決ったということが、神様の心に叶うことならば、お喜び頂く事ならばです。必ずその、決った事に対してです、印もして見せて下さるだろう、心の中には、神様が必ず喜びを送ってくださるということ、そこに今まで難儀と感じていたことは、一つも難儀ではないというようなです、おかげをいただかにゃいけんとおもうですね。
   おかげ頂きますように。